いいか、やい。小説ってなあ、入り組んだプロットにあっと驚くどんでん返し。それこそが醍醐味ってもんだ。
手に汗握るところを見繕ってもらおうじゃねえか・・はい。それも道理ですが、また別の楽しみもございましょう。
このご本はそっちが得手なんでございますよ。まあ、この隠居の話をお聞き下さいまし。

 土佐は室戸の鯨とりの荒くれ漁師たち。それに江戸深川の面々がお伊勢さんに参ります。船大工の宗八は
模型の勢子船を奉納し、鯨の豊漁を祈願しようと勇み立ちます。深川の両替商、伊勢屋さんは安政の大地震
に遭うも、身代に傷一つつきませんでした。お礼参りを欠かすわけにはいかない。そう堅く決意しています。
この旅程に懸ける心意気ならば、どちらも引けを取るものではありません。

 室戸と深川それぞれの御師が見た夢が、これに不思議に交錯いたします。御師は江戸時代のツアコンって
やつですな。実務能力に霊能までを兼ね備えている。まこと頼りになるお方です。深川の長屋に住む朝太とい
う元気で利発なこどもを介して、遠く離れた二つの土地は何とも奇妙な縁を結んでいきます。とまあ、このお話
のあらすじは極めてシンプル。だけれども、味わい深い。それに面白い。

 お伊勢さんには内宮と外宮がございまして、内宮(皇大神宮)のご祭神は天照大御神、神官は荒木田さま。
外宮(豊受大神宮)のご祭神は豊受大御神、神官は度会さま。豊受大御神は天皇家の祖先神でいらっしゃる
天照大御神の食事を司る神様で、丹波国からお出でになった。

 一生に一度は伊勢参り。江戸時代、諸国に暮らす庶民はお伊勢さんに参詣するのを楽しみにしておりました。
いやいや信仰はうわべの名目で、結局のところは観光旅行だろう。確かにそんな講釈も十分に成り立ちます。
近隣の古市には吉原(江戸)・島原(京)と併せて「三大遊廓」に数えられる色里があって、千人もの遊女を抱え
ていた。「伊勢参り、大神宮にも、ちょっと寄り」ってえ川柳がありますが、敬虔な祈りより先ず以て歓楽。

 ところがそうしたうがった見方に、このご本は真っ向から異を唱えていなさる。死と隣り合わせの鯨との壮絶な
たたかい。やっと育んだ小さな命も、感嘆するほかのない職人の仕事も一瞬に奪っていく大地震。日々の暮らし
は自然の中の一こまに過ぎません。自然がひとたび猛威を振るえばあたしら人間の力では対抗するすべはありゃ
あしません。みんなそれをよおっく呑み込んでるもんだから、今日一日を無事に過ごすと、人知を越えたどなたさ
まかに手を合わせ、頭を垂れて、慎ましく感謝申し上げるわけです。その延長にお伊勢さんがいらっしゃる。

 このご本の登場人物のやり取りには、いつも緊迫感が漂います。「きっぱりと」「しっかりと」「言い切った」「受け
止めた」などの言葉が効果的に使われている。「御師の辞儀を、勘兵衛はしっかりと受け止めた(p253)」。こん
な具合です。一つ一つの言葉が実に生き生きとしていて無駄がなく、嘘が一切ありません。心意気が漲っている。
聞き手は話し手の意図を「しっかりと」「受け止めて」、自分の出方を示さないといけない。

 ぽんぽんっと繰り出されるセリフを「きっぱりと」腹に入れてごらんなさいまし。そりゃあいい心持ちです。ご先祖
様が「ここに神様がおいでになるに違いない」と定めた処に佇んでみますと、得も言われぬ気分になりましょう?
あれと同じでございますよ。日本人のDNAが目を覚ますと申しましょうか。いや全く。そんな風な凛としたご本で
ございます。

文藝春秋 2008年8月号